其の二十五 「兄の上京がキッカケ」

 みなさん、こんにちは!古賀です。いかがお過ごしでしょうか?
私は、毎年11月は講演会にお招き頂く事が多く、全国を駆け回っております。

その中で、やはり私も引退して3年半経ち、また古賀塾を開塾していると言う事や、また3児の父と言う事もあり、「選手としての古賀」と言うより「指導者・古賀」としての質問をたくさん受けるようになりました。

古賀塾に来ている子供たちの親御さんにお会いして感じるのは、柔道を通して礼儀正しさとか精神力、粘り強さといったものを、我が子に身に付けて欲しいと強く願っていると言うこと。親や大人をナメてかかる子供に、危機感をもっている方もいます。今の時代、それを家庭でなかなかうまくしつけられない。子どもを叱りつける祖父母や近所の年長者もいなくなりました。子どもは子どもの世界、大人は大人の世界で生きているから、相互の信頼関係を深めたり、つながり合う機会が少ないのが、現状ではないでしょうか。

そんな中、家庭とは別の場所でみんな同じ目標に向かって頑張っていると、自然と子供たちから甘えが消え、いい緊張感が生まれます。先輩は後輩をかわいがるし、後輩は「あんな先輩になりたい」と自分もマネをして後輩と接する。こちらがものすごく叱っても、次の日ちゃんと稽古にやって来る。本気で向かいことの大切さを感じています。

今回は、私が中学から親元を離れ、同じ柔の道を志す同世代の人間との生活が始まったキッカケについてお話致します。

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 中学生、高校生時代は親元を離れ東京都世田谷区駒沢にある講道学舎で生活を送ることになった。ここは言うなれば全寮制の柔道家養成機関だ。

 学舎設立のキッカケは一九六四年、東京オリンピックで日本柔道がヘーシンク選手(オランダ)に敗れたことだった。総合塗装商社「ダイニッカ」の横地治男社長(現・会長)が日本柔道復興を目的に七五年に日本柔道育英学会を設立。その翌年に養成機関として講道学舎の施設が完工した。自分が入舎した当時はまだ無名の私塾であったが、今や設立二五年を超え自分をはじめ吉田秀彦、秀島大介、瀧本誠らのオリンピックチャンピオンや世界チャンピオンを輩出し、その卒業生は一五〇人を超える。

 私がこの学舎に入るキッカケとなったのは兄が先に学舎に進んだことだった。
 既に九州地区では注目される選手となっていた兄が出場する大会に、同学舎の関係者が次に入舎してくる兄を見に来ていた。当時、四年生だった私も同じ大会に出場していた。試合を見学した後、「兄貴もいいが、弟の方が俺はいいと思う」とその関係者から声をかけられたのだ。

 このときから二年間「稔彦ちゃんも中学からは東京行って強くなろうな」と言われ続けた。
 兄も東京に行っており「強くなりたい」と常に思っていた私は、まだ漠然とではあったがすでに小学校四年当時に「小学校を卒業したら東京へ行って強くなる」と思っていた。

 実際にその時期が来たときには、兄は「お前は来ないほうがいい」と言われたように思う。
 まだ学舎が創設されて間もなく、まだ無名でありそれほど強い生徒が集まっていない段階だった。兄としても今、私が入舎しても成長しないのでは、という心配のほうが強かったと思う。さらに、学舎の練習の厳しさは優秀な柔道選手だった兄の想像すら超える厳しいものだったのかもしれない。

 兄のなかでは、子供時代のひ弱だった弟のイメージが強く学舎の生活についていけないと思ったのだろう。また、親戚の人たちも「子供がふたりとも親元から離れるとは」と反対されていた。

 「ふたりとも東京へ行っちゃうとお父さんとお母さんがね、寂しがるよ」
 そんなことを随分と言われたように思う。だが、私は強くなりたかった。もはや何の迷いもなく入舎することを両親に告げていた。

 「稔彦どうする?」
 「俺、行くよ」
 「わかった」
 短い意思確認だったと思う。両親は一切反対しなかった。
 結局、両親と一緒に暮らしたのは小学六年生までということになる。

(つづく)

『精神力』(角川書店)より抜粋

(次回更新 11月28日)


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